名字の言

忘れられない対話の思い出がある。先日、懇談した壮年がそう語った。

その人が壮年のころだった。場所は東北。知り合いの旧家に地区部長と弘教に行った。

対話が始まると一家の婦人が血相を変えた。

わが家は檀家総代。学会に入(はい)れるわけがないと。

強硬な姿に、理解は得られないと感じた。

だが地区部長は違った。正しい宗教の必要性を粘り強く語った。

3時間が過ぎた時だった。

「分かりました」。婦人が信心を受け入れた。

喜びというより驚きだった。後になり、つくづく思う。

地区部長は立派だった。「なんとしても幸せになってもらいたい」。

相手の幸福を願う一念の大切さを教えてもらった、と。

心は不思議だ。

絶対、変わらないと見えても、人の言葉に触れて心は動く。善意の言葉を聞けば、心の善性が共鳴する。

御書にも、香り高い蘭の花の部屋にいると、その香りが体に移るように、善人に触れると、その徳の感化を受けるとある。

人間の生命を尊重する仏法は最高善の言葉に満ちている。

この仏法の精神に触発された時、人の心は人間性の輝きに包まれる。

仏法を基調とした語らいを進めることが、幸福と平和の波動を広げることになる。

誠実に、そして熱意を込めて友好対話を展開しよう。(聖教08.06.04)