2010年2月号  巻頭言

 「今生人界」の宝の歴史を!



にぎやかに

  また晴れ晴れと

    今日もまた

  肩組み進みし

     仏たちかな





「情熱にあふれ、生き生きととして、深い思いやりの心を持つ人は、

常に多くの友人を惹きつけることができます」

 私と妻が忘れ得ぬ交友を結んだ、中国文学の母・謝冰心先生の言葉である。

まさしく、創価の女性のスクラムといってよい。

 釈尊も、自分の方から親しく話しかける人であった。その音声は 「耳に快く、

愛情にみち、心に響き、優雅であり、多くの人々に愛され、多くの人々に喜ばれる」と

讃えられる。

 

 確かな哲学が見失われた現代の闇は深い。大仏法を語る我らの張り切った声が、

社会に希望と蘇生の金の波を広げるのだ。

 わが師・戸田城聖先生は言われた。

 「どんどん人と会うのだ。会った瞬間、”必ず心を開く” と決めて、生命力溢れる

対話をするのだ。心の世界は、いくらでも変化することを忘れるな!」





  恐るるな

   

    断固吼えゆけ

    

      弟子ならば





 日蓮大聖人は、「一切衆生の異の苦を受けるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」

(758?)と仰せになられた。この娑婆世界に、悩みのない衆生などいない。人それぞれ

に千差万別の苦しみがある。

 それが、どんなに深い宿命の苦脳であろうとも、必ず必ず打開できる―――そのため

の妙法である。仏法対話とは、悩める友のもとへ、この大聖人のお心を携えて訪れる

ことに他ならない。

 すなわち大聖人のお遣いとして、「あなたも絶対に幸福になれる」 と大確信の励ましを

贈り、勝利の智慧と勇気を自他共に引き出していくのだ。これほど崇高なる仏の聖業が

あるだろうか。

 当然、反発もある。 「立正安国論」 など対話形式の諸御抄には、相手の反応が

「憤りて曰く」「疑って伝く」「驚いて伝苦」等々と記されている。それは、仏の音声が先方の

命に届いて、眠っていた仏性が触発され始めた証しとも拝される。あの佐渡の阿仏房も、

初めは、大聖人を論詰しようとしたと伝えられる。しかし 「北国の導師」 と讃嘆される門下に

変わっていったのだ。





   わが戦闘

 

     不軽菩薩に



        相続く



     大聖人も



       讃え護らむ



 広宣流布に生き抜くことは、わが色心に妙法の力を漲らせゆく仏事だ。「歓喜の中の大歓喜

が湧き上がらないわけがない。

 法華経に登場する不軽菩薩は 「初随喜の人」 とされる。師匠の教えを聞いて歓喜の心を

起こす、初心の行者の意義である。

 不軽菩薩は常にみずみずしい大歓喜の躍動する生命で、出会う一人一人の仏性を敬い、法を

説いていった。最初は不軽を侮り、迫害した衆生も、最後は皆、信伏随従していったのである。

 昭和三一年の大阪の戦いに、わが誉れの同志は、私と一緒に歓喜踊躍して挑んでくれた。私

も題目を心で唱え抜きながら、大阪中を駆けずり回った。一日の移動距離が数百キロになる日

もあったようだ。全大阪の国土世間に、妙法の功力を脈動させ、会う人すべてを味方に変えゆく

祈りと行動であった。このはち切れんばかりの勢いが、諸天を揺さぶり動かしたのだ。

 

 大阪に続いて十倍の拡大を成し遂げた山口開拓闘争は、まだ会館がない時代である。宿泊の

旅館を拠点とさせていただいた。お世話になる主人や従業員の方々に、私は礼を尽くして接した。

その中から入会した人も少なくない。この時、私が折伏した一人の婦人は、生涯で百世帯を超える

弘教をされ、「私は勝ちました!」 と勝鬨をあげられた。そのお孫さんが創価大学に学ばれ、立派な

リーダーとして活躍する近況も、うれしく伺ったいる。

 

 「地涌の儀」 によって、二人、三人、十人、百人と広宣流布の陣列は必ず広がる。それは即、

「今生人界」 の宝の歴史だ。

 「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします!」。

三十五年前、グアムでのSGI(創価学会インターナショナル) の発足の際、私は呼びかけた。この

一念で戦い続けてきたゆえに、創価は勝った。この方程式で、未来永遠に勝っていくのだ。





  喜ばむ



    勝利 勝利の



       創価かな



    威勢の歓声



      今年も あげゆけ