関西最高協議会スピーチから

2007年11月13日 聖教新聞
関西最高協議会での名誉会長のスピーチ 下  前半

関西は“創価の宝”の大天地!
世界一の団結の模範たれ
広布のため勝利のため 心を一つにして進め

 一、先日、来日された、3億5000万人の若人の大連帯である、
「中華全国青年連合会」(全青連)の代表は、関西青年部との交流を、ことのほか喜ばれていた。
 中国の未来を担う新世代の青年指導者たちとも、深い友情と信頼を結ぶことができた。両国の世々代々の平和友好にとって、これほど頼もしいことはない。
 近代中国の大恩想家である、李大訢(りたいしょう)先生は言った。
 「青春の我をもってして、青春の家庭を、青春の国家を、青春の民族を、青春の地球を、青春の宇宙を創造しゆくのだ」
 青年に勝る「創造の活力」はない。
 青春に勝る「生命の宝財」はない。
 わが関西青年部は心広々と、日本中、世界中の青年と連帯して、新たな「青春の常勝の世紀」を創造していってくれたまえ!(大拍手)

 生命を賭して苦境を打開
 一、日蓮大聖人の仏法を広宣流布しゆく原動力は、何か。
 それは「師弟不二」の大闘争である。
 記録によれば、二祖・日興上人が日蓮大聖人に初めてお会いし、大聖人の弟子となられたのは13歳のころとされる。
 伊豆流罪の法難の際、大聖人にお仕えし、大聖人をお護りしたのも、若き日興上人であられた。
 師匠と艱苦を共にする。弟子として、これほどの名誉はない。
 日興上人は、大聖人のもとで薪水の労を取るかたわら、時には周辺の地域にまで足を延ばし、弘教に励まれた。熱海では真言の僧を破折し、大聖人に帰伏させたとも伝えられる。
※薪水の労=炊事などの労働。転じて、人に仕えて骨身を惜しまない働きをすること。奥の細道芭蕉の下葉に軒をならべて、予が-をたすく」(広辞苑より)
 どんな困難な状況にあっても、徹して師に仕え抜く。雄々しき言論の闘争で、敵をも味方に変えていく──。
 戸田先生の事業が最も苦境にあった時、私は、こうした日興上人の闘争を深く心に刻んだ。
 そして、先生に広宣流布の指揮を自在に執っていただくことをひたぶるに祈りながら、師を厳護し、生命を賭して、苦境の打開への道を開いていったのである。
 一、戸田先生が第2代会長に就任された翌年の昭和27年(1952年)、蒲田支部で私が指揮を執り、あの「2月闘争」の火ぶたを切った。
 ここから、戸田先生が願業とされた「75万世帯」達成への本格的な回転が始まったのは、皆様がご存じの通りである。
 そして、この年の8月14日──すなわち師と初めてお会いした記念の日に、私は、わが「青春のふるさと」となる関西へ、広宣流布の第一歩を踏み出したのである。
 早いもので、それから今年で55周年を迎えた。

 身近な所から友情の拡大を 
 一、大聖人が赦免になり、伊豆から鎌倉に戻られると、日興上人は駿河(現在の静岡県の一部)・甲斐(現在の山梨県)方面にたびたび足を運ばれ、折伏を推進された。
 この方面は日興上人が生まれ育った地域であり、親戚も多数おられた。幼年期からの友人や知人も多かったと思われる。
 日興上人は、御自身に緑の深い土地を起点として、新たな「拡大」の突破口を開かれたのである。
 広宣流布とは、正義の大波を、身近な足元から広げていくことだ。
 身近な友と信頼を結び、わが地域に対話の花園を広げていく。仏法の慈悲の精神を社会に生かし、展開しゆく創価学会の運動こそ、最も道理に適った「仏法即社会」の前進なのである。
 日興上人は、大聖人の佐渡流罪にあっても、身に影の添うがごとく師にお供された。
 そして佐渡流罪を終えて、大聖人が身延に入られると、駿河・甲斐方面の弘教に全力を注がれたのである。
 この一帯は大聖人がおられる身延とは距離が近く、連絡を取ることも比較的容易であった。日興上人は、いざとなれば、いつでも師匠のもとに馳せ参じることができた。
 師の心をわが心として、広宣流布の新天地を開拓する。そして、勇んで勝利の結果を師に報告する──。
 日興上人の法戦には「師弟の精神」が脈動していた。
 日興上人に、後の第三祖・日目上人が、自ら入門を願い出たのも、このころである。
 この時、日興上人は29歳。日目上人は15歳であられた。
 一説には、学匠と仰がれていた人物を日興上人が破折するのを目の当たりにし、深く心を動かされて入門を決意したと伝えられている。
 ともあれ、若き日興上人の御活躍によって、大聖入門下が続々と誕生した。
 次代を担う新たな「人材」が、澎湃として躍り出てきたのである。
※澎湃=水のみなぎりさかまくさま。転じて、物事が盛んな勢いで起るさま。「世論-として起る」(広辞苑より)

 「人脈」を活用 
 一、日興上人は、どのようにして目覚ましい拡大を成し遂げていかれたのであろうか。
 いくつか要点を挙げてみたい。
 まず、日興上人は御自身の人脈を存分に活用しながら、一人また一人と対話を交わし、仏縁を結んでいかれた。
 日興上人の親戚は、多くが入信している。
 富士南部の弘教の中心者となった高橋六郎兵衛入道も、日興上人の化導で入信した。この高橋入道の妻は、日興上人のおばであった。
 また縁故のあった、実相寺の筑前房らも日興上人の弟子になっている。
 松野家、南条家やその縁者、また旧友たちにも、弘教が広がっていった。
 さらに、実相寺の肥後公、四十九院の日源らが、日興上人の弘教で入信している。
 そして、日興上人が妙法に帰依させた人々が、さらに自身の縁者を折伏した。人脈は、次から次へと広がり」拡大が進んでいったのである。
 日興上人とその門下によって、妙法の種が蒔かれた地域は、東北から、信越、関東、東海道、中部、関西、中国、四国、九州と、ほぼ全国に及んでいる。
 新たに入信した人々の立場は、武士やその家人、農民など多彩であった。「一対一の対話」によって、広宣流布は水かさを増していったのである。

 早朝の電話 
 一、昭和31年(1956年)、28歳の私は、ここ大関西で、未聞の大法興隆、そして師の大願を成就し、同志の願いを成就しゆく歴史を築き上げた。
 この年の5月には、わが大阪支部は、庶民の「勇気」と「誠実」と「忍耐」の力を結集して、1カ月で1万1111世帯の大折伏を達成。
 そして、7月には“まさかが実現”と言われた民衆勝利の金字塔を打ち立てたのである。
 決戦の日の朝。
 東京におられた戸田先生から、関西本部にいた私のもとに電話がかかってきた。5時ごろであった。
 私は受話器を取った。
 「大作、起きていたのか」
 先生は、驚かれたご様子であった。
 「関西はどうだい?」
 私は、即座に答えた。
 「こちらは勝ちます!」
 「そうか。......東京はダメだよ」
 残念そうな声であった。
 結局、勝てると思われていた東京は負けた。しかし、勝てないだろうと言われた大阪が勝った。
 先生は「大作のおかげで勝てた!」「うれしいな」と本当に喜んでくださった。
 「常勝関西」の歴史を切り開いた、尊き同志との共戦の歴史は、忘れ得ぬ“今生人界の思い出”である。
 師弟の精神を胸に、欣喜雀躍と、広宣流布の拡大へ挑戦していく。
 この「関西魂」を忘れない限り、わが創価学会は未来永遠に前進し、勝ち栄えていくことができる。

弟子が戦い勝つ時代 
日興上人は拡大の最前線へ

 敵陣のただ中で言論戦を展開 
 一、日興上人が駿河地方の弘教の拠点とされたのは、蒲原荘(かんばらしょう)中之郷にあったとされる、天台宗の「四十九院」であった。
 日興上人の弘教によって、天台僧をはじめ多くの人々が大聖人門下となると、強い反感を抱いた四十九院の寺務(じむ)・厳誉(げんよ)は、日興上人をはじめ、大聖入門下となった僧らの住房、田畑を奪い、追放する暴挙に出た。
 これに対して、日興上人を中心とする門下は、幕府に烈々たる訴状「四十九院申状」を提出し、自らの正義を訴え抜いた。
 そして「早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんと欲す」(御書849ページ)と、公場対決を迫られたのである。
 日興上人は、どこまでも、臆することなく、敵の真っただ中へと切り込んでいかれた。
 富士郡下方庄熱原郷の地にあった滝泉寺の供僧(ぐそう)である日秀、日禅らも日興上人の弟子となっている。
 滝泉寺も、本来、天台宗の寺であった。
 天台宗はもともとは、伝教大師の宗義により法華経を奉じていたが、第3代座主・慈覚、第5代座主・智証に至り、真言を取り入れて天台真言となった。
 滝泉寺においては、やがて念仏までも容認するようになり、正法正義を掲げる大聖人の教団に迫害を加えるようになったのである。
 しかも、熱原を含む駿河の地は、執権・北条家の領地であり、最明寺入道(北条時頼)、極楽寺入道(北条重時)等の後家尼らとつながりの深い土地であった。
 日興上人は、こうした敵陣のただ中で、勇敢に折伏の旗を掲げられたのである。
 迫害は激しさを増し、多くの農民信徒に対して、でっちあげの罪状による非道な弾圧が加えられた。
 日興上人は、門下を守るために、大聖人と弟子の共同作業である「滝泉寺申状」を幕府に提出。堂々と真実を述べ、弾圧の不当であることを訴えた。
 熱原の農民たちは、幕府の権力者・平左衛門尉頼綱の“法華経を捨てろ”との脅しにも屈しなかった。
 そして、神四郎、弥五郎、弥六郎の三烈士が壮絶な殉教を遂げた。熱原の法難である。

後半へ